ルースはやっぱりいいですね。
触れる、つぶせる、乗せられる、真横から眺められる・・・。
透かしたりして見られる。
その一粒のなかの豊かなスペースにうっとりすると同時に、
その一粒から広がるイマジネーションの世界が、何とも言えない、自由を感じるのです。
動物間にはない時間だと思います。
今日は、ムーンストーンと翡翠の写真を撮りました。
STONE HIGHの翡翠は、正真正銘のミャンマー、パカン産の本翡翠です。
それだけで、とてもとても高価な宝石です。
実際、天然無処理の宝石と、樹脂を浸透させたり、一度乾燥させてスカスカにした跡で、色を浸透させる着色処理をしている翡翠が、市場の大半を占めている事を皆さんご存知でしょうか。
STONE HIGHでは、開店当初から本翡翠にご縁があって、グリーン色の本翡翠を定期的に入荷しています。
直輸入であることや、それ以前に、もともとが宝石界とは全く縁もゆかりもない存在であったSTONE HIGHの面々は、その価値にウトカッタ。。かもしれません。
ある時、デパートで全く同じタイプの本翡翠を発見した面々は、その価格に驚きました!のぁんと、STONE HIGHの10倍以上!!本当に驚きました(^0^!)
友人にも、『ちょっと安過ぎるんじゃないの?』と言われ、バイヤーにも『STONE HIGHは安く売りすぎだ』と言われているそうです。(ミャンマー人にそういわれたらしい・・・)
そんなかんなで、『確かに安すぎだよねーー』と気がつきながらも、『でも、今はいいんじゃない?』と、商売っけにかけるSTONE HIGHでした。
それにしても、マジ、安すぎて、偽者だと思われていないかなー・・と思ったりしていますが、本物です。
何度も言うようですが、天然無処理のグリーンで艶と透明感のある本翡翠は、凄く大切な石なのです。
STONE HIGHの本翡翠達、ずーッと愛される人のところへ行けるといいのだけれど・・・。
2010年10月25日月曜日
2010年10月17日日曜日
素材感
自然の力では作れない物を作りたい・・・それは、モノを作る上で、最高の欲なのではないかと思う。
自然にある素材を利用して、自然が作り出せない造形に挑む。「生む」とはそんな事なのではないだろうか。
宇宙の中で、その延長線上にある私的オリジナリティー。素材を知り、その味を漂わせながら、私的流にまとめる。そのプロセスは、まるで、素材と会話をしているようなものである。素材が気持ち良さそうで、どのプロセスにおいても美しいと、作り手が思える事が非常に大切な事である。
私達は、何物とも通じ合っている。それは必ずそうなのである。しかし、通じていながらも、意識では認識できない所に、淋しさと悲しみがあるのであって、全く通じていなければ、通じているのに通じない・・、そんな辛さは感じないのである。。
今、わたしは、石を中心にその石が私達人間の日常に生かされるよう、また、活躍できるようなアイテムを創造することがとても楽しい。じっくりと対話しながら世界に一個しかない、その石の為に作りたい。
そのためにも、原子の事をもっと知りたいと思っている。原子は、それ固有の意思を持って動いている。原子の意思が分かると、その作用が分かり、もっともっと石が私の中に強く存在するように思うからである。石は、私を生かしてくれる大切な存在である。そんな石に輝き続けてほしいし、人に役立つ大きな力を持っていると思う。
そんな事で、毎日、殆ど家から出る事の無い生活で、且つ、家族以外の人と会う事が全くと言っても過言でないほど、人に会わない生活をしている今日この頃・・・。気晴らしに、たまには友達に会おうかナーーーとは、思うけれど、それよりも本を読んでいる方が楽しいし。。。と思ってしまったりするものだから、更に人と会う機会を逃してしまう。そんな私の生活は、起きる→ご飯を作る→食べる→ジュエリーを作る→ご飯を作る→食べる→寝る→・・・の繰り返しである。寝る時間とジュエリーを作る時間はどちらも私的オンリーな時間で、この時間が私は大大大好き~なのである・・・なので、今は、このようなメチャ単調な生活がとても気に入っている。これから、寝る。今日はどんな夢を見るかナーーー、何処にいけるかナーーー楽しみ!!
自然にある素材を利用して、自然が作り出せない造形に挑む。「生む」とはそんな事なのではないだろうか。
宇宙の中で、その延長線上にある私的オリジナリティー。素材を知り、その味を漂わせながら、私的流にまとめる。そのプロセスは、まるで、素材と会話をしているようなものである。素材が気持ち良さそうで、どのプロセスにおいても美しいと、作り手が思える事が非常に大切な事である。
私達は、何物とも通じ合っている。それは必ずそうなのである。しかし、通じていながらも、意識では認識できない所に、淋しさと悲しみがあるのであって、全く通じていなければ、通じているのに通じない・・、そんな辛さは感じないのである。。
今、わたしは、石を中心にその石が私達人間の日常に生かされるよう、また、活躍できるようなアイテムを創造することがとても楽しい。じっくりと対話しながら世界に一個しかない、その石の為に作りたい。
そのためにも、原子の事をもっと知りたいと思っている。原子は、それ固有の意思を持って動いている。原子の意思が分かると、その作用が分かり、もっともっと石が私の中に強く存在するように思うからである。石は、私を生かしてくれる大切な存在である。そんな石に輝き続けてほしいし、人に役立つ大きな力を持っていると思う。
そんな事で、毎日、殆ど家から出る事の無い生活で、且つ、家族以外の人と会う事が全くと言っても過言でないほど、人に会わない生活をしている今日この頃・・・。気晴らしに、たまには友達に会おうかナーーーとは、思うけれど、それよりも本を読んでいる方が楽しいし。。。と思ってしまったりするものだから、更に人と会う機会を逃してしまう。そんな私の生活は、起きる→ご飯を作る→食べる→ジュエリーを作る→ご飯を作る→食べる→寝る→・・・の繰り返しである。寝る時間とジュエリーを作る時間はどちらも私的オンリーな時間で、この時間が私は大大大好き~なのである・・・なので、今は、このようなメチャ単調な生活がとても気に入っている。これから、寝る。今日はどんな夢を見るかナーーー、何処にいけるかナーーー楽しみ!!
2010年10月11日月曜日
百人かみつきザル捕獲
今朝の東京新聞の記事に、静岡県三島市で捕獲されたサルについての記事を読んだ。
懸賞金が20万円、捕獲されたサルは飼いザルであった可能性を示唆している。
おりに閉じ込められたサルは、終始、人から顔を背けてうずくまっているとの事・・・。
このサルの処分について、殺処分もやむを得ないとのコメントがあった。
この理由として、この猿を野に放せば、野生のサルに、噛み付く文化が広まるかもしれないから・・とか何とか・・。
私は、専門的なことは判らないが、随分と狭い見地だと思った。
一匹のサルからサルの世界に噛み付き文化がはびこる??さるって、噛み付く生き物だよね・・・。
人から顔を背けて、うずくまっているサル・・・人が恐いのではないのか・・・・。
対人間については、殺人犯であっても死刑に対して廃止を訴えている声が取り上げられているにもかかわらず、100人にしても噛み付いただけで殺されてしまうサル・・・、サルの気持ちも知らないで・・・。
人間なんてこんな者・・・。サルが理由も無く人に噛み付くかしら・・・。
遺伝子組み換え作物についても、MOP5で「責任と修復」についての既定が話し合われているそうだが、何処まで行けば、人は、自分達を生んだ地球よりも、お金を大事にする事のおろかさに気が付くのか、懸念材料が拭い去れない中で、今尚、遺伝子組み換え作物の研究と実用化が進んでいる、更に生殖能力を持たないGMサケが近く、アメリカで承認されるそうだ。
生き物から生殖能力を奪い、その結果、種を有料独占する企業が発展を遂げる、こんな可笑しな事が、世界の高学歴、高収入、インテリ層の間で行なわれている。ばかげた事だ。
遺伝子組み換え作物を食べたマウスは、肝臓、腎臓の機能低下と不妊、免疫不全などの症状が出ていると、各国から報告されているそうです。家畜のえさには、これらが当たり前に使われているそうですので、くれぐれも気をつけたほうが良い。狂牛病で最愛の娘を亡くしたイギリス人が、「1パーセントの疑念があれば、それは避けたほうが良い」といっていたが、その通りだと私は思う。数多くの疑念がある中で、遺伝子組み換え作物が推奨されている実情を見ると、政府はトコトン経済最優先なのだと、この場に及んで言葉もない。「おまえ達、遺伝子組み換え作物を一生かけて食べ続けろ!それが出来るのか!」といってやりたい。
このような、ばかげた事が推進されている世界において、国民健康保険がウンチャラ・・などといっても、全く意味が無い。誠に0ベースで人間に必要なモノはなんなのかを箇条書きにする所から始めた方がいいのではないだろうか。頭が良過ぎるのか、頭を使いすぎ!何でも「過ぎ」は良くないよ。
いろんな事を考える時、子供の教育が最も大切な事だと、そこに行き着く。
体力低下は、子供に木登りをさせないから、路面でケンケン遊びをさせないから、お稽古ばかりさせて、子供の自由を奪っているから・・・・・。東京の私の子供の学校では、雪の日に学校で雪合戦禁止なんですよ、信じられます???
自主性にかけるのは、間違った事をした子供の頭を撫でてあげないから・・、意外な意見を膨らませてあげないから・・・、判らないことを分からないと大人が言わないから・・・。時間に任せるゆとりを大人は持ったほうが良い。
勉強に関して言えば、子供の想像力を活性化させるような教え方が望ましい。答えをその場で出し、確認する事ばかりが能ではない。生活の中で活用できてこその学びである事に立ち返り、いかに生活に取り入れた授業内容にするかに、先生方の力を注いでほしいものだ。私は、興味の無いことには全くと言っていいほど、取り組まない子供だったので、学校の授業は、退屈で仕方が無かった。中学2の後半からは、殆ど授業には出なかったが、今となっては、後悔している・・。大人になって、初めて勉強する事が素晴らしい事だと気づかされた愚か者だが、その分、楽しい学びが何処にあるか、子供の気持ちは良く分かる。
子供を育てる事は、本当に大変。私も本当に辛い時期が長くあったけど、今は子供といる時間が一番大事です。子供を育て上げた人に「今が一番いい時期よ・・」って、言われて、「そうなのかなーーー」って思ってたけど、最近、「そうかもしれない・・」って思う。幸せって、気付いたら、残り僅か・・・なんて事があるのかなーー。この前、下の子供とあと人生何時間あるのか、計算してみた。下の子供は7歳で98歳まで生きる予定だと言ったので、残りは92年、92年×365日×24時間=805,920時間・・・・えーーー、たったこれだけ~~~~!一億とか一兆なんて数字は当たり前に飛び交うこの時代において、たかだか、八十万??なんて短いの・・、と驚いてしまった。
私は、80歳まで生きる予定として、(80歳ー38歳)×365日×24時間=367,920時間か~。
(ここで思った、幾つかの単位で括るよりも、一つの単位で流した方が、意外と感覚的にわかりやすいのね!)
世の中の、不道理を思うとき、子供と一緒に居る時間をもっと大切にしてほしいと願う。母親が子供とべったりしている時間は、たかだか6年だろう。この6年が人の一生にとってどれだけ大切かは、計り知れない。この間、未熟な母親であっても、暗い時期があったって、いいのではないだろうか。完璧である必要は無い。子供の幸せを願う気持ちと、可愛い・・と思う気持ちがあれば、何とか成るのではないだろうか。(しかし、可愛い・・と思えないとしたら、それは、他人の助けを求めた方がいいと思う)
また、それに加えて、木登りをさせて上げられる世間のゆとりが必要だ。子供が自由に外で遊べば、おのずと親は、外と関われるものだ。この点は、発展途上であった頃のほうが、ずっと進んでいたのではないだろうか。
あえて、外と関わる必要がなくなっている昨今、どのように外と関わるのかを選ぶことが出来るようになっている。言い換えれば、別に関わらなくても生きていけるのだから、好きなように関わればいいや!と楽観的に成る事も出来るのだ。好きなようにすればいいのだ。そのときに見えてくる世界が、本当の世界なのではないだろうか。そこに実態があるのだと思う。好きにしてみれば、本当の愛が見えてくるかもしれない。人は宇宙の果てまで繋がっているのだ。
懸賞金が20万円、捕獲されたサルは飼いザルであった可能性を示唆している。
おりに閉じ込められたサルは、終始、人から顔を背けてうずくまっているとの事・・・。
このサルの処分について、殺処分もやむを得ないとのコメントがあった。
この理由として、この猿を野に放せば、野生のサルに、噛み付く文化が広まるかもしれないから・・とか何とか・・。
私は、専門的なことは判らないが、随分と狭い見地だと思った。
一匹のサルからサルの世界に噛み付き文化がはびこる??さるって、噛み付く生き物だよね・・・。
人から顔を背けて、うずくまっているサル・・・人が恐いのではないのか・・・・。
対人間については、殺人犯であっても死刑に対して廃止を訴えている声が取り上げられているにもかかわらず、100人にしても噛み付いただけで殺されてしまうサル・・・、サルの気持ちも知らないで・・・。
人間なんてこんな者・・・。サルが理由も無く人に噛み付くかしら・・・。
遺伝子組み換え作物についても、MOP5で「責任と修復」についての既定が話し合われているそうだが、何処まで行けば、人は、自分達を生んだ地球よりも、お金を大事にする事のおろかさに気が付くのか、懸念材料が拭い去れない中で、今尚、遺伝子組み換え作物の研究と実用化が進んでいる、更に生殖能力を持たないGMサケが近く、アメリカで承認されるそうだ。
生き物から生殖能力を奪い、その結果、種を有料独占する企業が発展を遂げる、こんな可笑しな事が、世界の高学歴、高収入、インテリ層の間で行なわれている。ばかげた事だ。
遺伝子組み換え作物を食べたマウスは、肝臓、腎臓の機能低下と不妊、免疫不全などの症状が出ていると、各国から報告されているそうです。家畜のえさには、これらが当たり前に使われているそうですので、くれぐれも気をつけたほうが良い。狂牛病で最愛の娘を亡くしたイギリス人が、「1パーセントの疑念があれば、それは避けたほうが良い」といっていたが、その通りだと私は思う。数多くの疑念がある中で、遺伝子組み換え作物が推奨されている実情を見ると、政府はトコトン経済最優先なのだと、この場に及んで言葉もない。「おまえ達、遺伝子組み換え作物を一生かけて食べ続けろ!それが出来るのか!」といってやりたい。
このような、ばかげた事が推進されている世界において、国民健康保険がウンチャラ・・などといっても、全く意味が無い。誠に0ベースで人間に必要なモノはなんなのかを箇条書きにする所から始めた方がいいのではないだろうか。頭が良過ぎるのか、頭を使いすぎ!何でも「過ぎ」は良くないよ。
いろんな事を考える時、子供の教育が最も大切な事だと、そこに行き着く。
体力低下は、子供に木登りをさせないから、路面でケンケン遊びをさせないから、お稽古ばかりさせて、子供の自由を奪っているから・・・・・。東京の私の子供の学校では、雪の日に学校で雪合戦禁止なんですよ、信じられます???
自主性にかけるのは、間違った事をした子供の頭を撫でてあげないから・・、意外な意見を膨らませてあげないから・・・、判らないことを分からないと大人が言わないから・・・。時間に任せるゆとりを大人は持ったほうが良い。
勉強に関して言えば、子供の想像力を活性化させるような教え方が望ましい。答えをその場で出し、確認する事ばかりが能ではない。生活の中で活用できてこその学びである事に立ち返り、いかに生活に取り入れた授業内容にするかに、先生方の力を注いでほしいものだ。私は、興味の無いことには全くと言っていいほど、取り組まない子供だったので、学校の授業は、退屈で仕方が無かった。中学2の後半からは、殆ど授業には出なかったが、今となっては、後悔している・・。大人になって、初めて勉強する事が素晴らしい事だと気づかされた愚か者だが、その分、楽しい学びが何処にあるか、子供の気持ちは良く分かる。
子供を育てる事は、本当に大変。私も本当に辛い時期が長くあったけど、今は子供といる時間が一番大事です。子供を育て上げた人に「今が一番いい時期よ・・」って、言われて、「そうなのかなーーー」って思ってたけど、最近、「そうかもしれない・・」って思う。幸せって、気付いたら、残り僅か・・・なんて事があるのかなーー。この前、下の子供とあと人生何時間あるのか、計算してみた。下の子供は7歳で98歳まで生きる予定だと言ったので、残りは92年、92年×365日×24時間=805,920時間・・・・えーーー、たったこれだけ~~~~!一億とか一兆なんて数字は当たり前に飛び交うこの時代において、たかだか、八十万??なんて短いの・・、と驚いてしまった。
私は、80歳まで生きる予定として、(80歳ー38歳)×365日×24時間=367,920時間か~。
(ここで思った、幾つかの単位で括るよりも、一つの単位で流した方が、意外と感覚的にわかりやすいのね!)
世の中の、不道理を思うとき、子供と一緒に居る時間をもっと大切にしてほしいと願う。母親が子供とべったりしている時間は、たかだか6年だろう。この6年が人の一生にとってどれだけ大切かは、計り知れない。この間、未熟な母親であっても、暗い時期があったって、いいのではないだろうか。完璧である必要は無い。子供の幸せを願う気持ちと、可愛い・・と思う気持ちがあれば、何とか成るのではないだろうか。(しかし、可愛い・・と思えないとしたら、それは、他人の助けを求めた方がいいと思う)
また、それに加えて、木登りをさせて上げられる世間のゆとりが必要だ。子供が自由に外で遊べば、おのずと親は、外と関われるものだ。この点は、発展途上であった頃のほうが、ずっと進んでいたのではないだろうか。
あえて、外と関わる必要がなくなっている昨今、どのように外と関わるのかを選ぶことが出来るようになっている。言い換えれば、別に関わらなくても生きていけるのだから、好きなように関わればいいや!と楽観的に成る事も出来るのだ。好きなようにすればいいのだ。そのときに見えてくる世界が、本当の世界なのではないだろうか。そこに実態があるのだと思う。好きにしてみれば、本当の愛が見えてくるかもしれない。人は宇宙の果てまで繋がっているのだ。
2010年10月6日水曜日
映画「悪人」を見た
ウーーー、今日、やっと映画「悪人」を見ることが出来ました。
原作を読んでいた人と読んでいない人では、感じ方が違ったのではないかナー。祐一像について、かなり端折っていたし、登場人物同志が複雑に入り混じっている感じも表現できていなかったように思う。
映画では、世の中のシステムの中でモデル的な恵まれた環境の中で生きている、凄く性格の悪い若者、増尾と、田舎者で悲しい生い立ちで、都会の流れからおいて行かれた若者、祐一から見えてくる「悪」に集約されているようだったが、この物語の本当に掴みたい部分は、祐一が行なっている「善」であると、私は思うのです。裏タイトルは「善」なのだ^0^;イヤホント!同じストーリーを裏から見た「善」と言う心にしみる・・・・を書いてくれないかなーー。
原作の中で祐一が言った言葉に「・・・でもさ、どっちも被害者にはなれない」と言うセリフがある。
母親にお金をいやいやせびっている事をヘルス嬢に話した後のセリフだ。母親は子供の祐一を捨てた、その事を大人になった祐一に会うたびに泣いて謝っていた、そんな母親に金をせびった祐一が言ったセリフだ。
私もかねがね、「善人を作れば悪人が存在する、人は良い人であろうとするが、良い人が作られれば、それと同時に悪い人が存在するんだ」と話す事がある。子育てにおいても、自分の子供が良い子であって欲しいと思う親が沢山いて、子供同士が玩具の奪い合いなんかをしていると、「00ちゃんに譲ってあげなさい」なんてシーンには、子供を育てた親なら必ず遭遇しているであろう。時と場合によるが、その裏に「00ちゃんは良い子ねー」と、なんというか、いやらしい下心が見えることも少なくない。
一見いい人であろうとする人が今の時代目に付く。
「良い事は人に気付かれないようにするものだ」この事を実践していたにも関わらず、悪人になってしまった祐一。祐一は、一つの弱さ故に悪人になってしまった、その弱さとは、人を信られない弱さではないだろうかと、そんな風に思った。絶対にどんな事があっても信じられるものが子供には必要なのだ。それが母親なのだとこの映画で改めて思った。
ラストの方で、祐一を育てた祖母、房江が家の前にたむろしているマスコミを前に立ち止まるシーンがある。
ここで言ってほしかった「祐一は良い子なんです!」と・・・。世間体を考えて、思っていても言えない一言ってあるじゃないですか?政治でもそんな一言が聞こえてくるシーンがありますよね。友人との会話でもあります。また、言えない一言ってある。その一言の持つ背景は、他人には見えないもの・・・、でもその一言は、大きな一言で、見えないけど、大切な根幹を流れる一言だったりするんです。その一言を言っても現実は何も変わらないかもしれない、でも、その一言を言う事で、本当の現実が見えてくる事もあるのだと、そんな事も思ったりしました。
光代が灯台で「何か言ってよ!祐一は何も言わない!」と言うシーン、祐一は「ずっと一緒には居られない、光代も分かっているだろう・・・」と言うやり取りがある。言ってもしょうがない・・・・本当にそうなのだろうか。しょうがあろうが無かろうが、言うことに実があるのだ!と私は強く思う。言う事の先に何も無くて良い、言うことに意味があり、それが全てであっていいではないか。ぶつけっぱなしで許される関係が人には必要だ。本当は良い人なのよ・・・って、そんな強さが必要だと、いろんなところで思う。信じる事が許される世の中であってほしいと思います。
ンーーーーン、出所してきた祐一と光代の幸せなドラマがみたいゾーーー。
ガマンしても泣けた映画だった。原作がかなり省略されていた分、役者の演技、表情がかなり際立っていた映画でした。佳男が佳乃が殺された現場に行ったとき、現れた佳乃の亡霊、「誰がおまえをこんな目に合わせた?」と聞く佳男を見る佳乃の表情が抜群だった。それと、光代が働く職場の先輩、水谷役の役者・・名前が出てこないけど、その役者がやるのかなーーーと思っていたが、いやいやピッタリでおまんがな!ワンシーンしか出てこないが、存在感ありありで、配役がよかったよーーー。
あーーー、限がないな、こりゃ。
原作を読んでいた人と読んでいない人では、感じ方が違ったのではないかナー。祐一像について、かなり端折っていたし、登場人物同志が複雑に入り混じっている感じも表現できていなかったように思う。
映画では、世の中のシステムの中でモデル的な恵まれた環境の中で生きている、凄く性格の悪い若者、増尾と、田舎者で悲しい生い立ちで、都会の流れからおいて行かれた若者、祐一から見えてくる「悪」に集約されているようだったが、この物語の本当に掴みたい部分は、祐一が行なっている「善」であると、私は思うのです。裏タイトルは「善」なのだ^0^;イヤホント!同じストーリーを裏から見た「善」と言う心にしみる・・・・を書いてくれないかなーー。
原作の中で祐一が言った言葉に「・・・でもさ、どっちも被害者にはなれない」と言うセリフがある。
母親にお金をいやいやせびっている事をヘルス嬢に話した後のセリフだ。母親は子供の祐一を捨てた、その事を大人になった祐一に会うたびに泣いて謝っていた、そんな母親に金をせびった祐一が言ったセリフだ。
私もかねがね、「善人を作れば悪人が存在する、人は良い人であろうとするが、良い人が作られれば、それと同時に悪い人が存在するんだ」と話す事がある。子育てにおいても、自分の子供が良い子であって欲しいと思う親が沢山いて、子供同士が玩具の奪い合いなんかをしていると、「00ちゃんに譲ってあげなさい」なんてシーンには、子供を育てた親なら必ず遭遇しているであろう。時と場合によるが、その裏に「00ちゃんは良い子ねー」と、なんというか、いやらしい下心が見えることも少なくない。
一見いい人であろうとする人が今の時代目に付く。
「良い事は人に気付かれないようにするものだ」この事を実践していたにも関わらず、悪人になってしまった祐一。祐一は、一つの弱さ故に悪人になってしまった、その弱さとは、人を信られない弱さではないだろうかと、そんな風に思った。絶対にどんな事があっても信じられるものが子供には必要なのだ。それが母親なのだとこの映画で改めて思った。
ラストの方で、祐一を育てた祖母、房江が家の前にたむろしているマスコミを前に立ち止まるシーンがある。
ここで言ってほしかった「祐一は良い子なんです!」と・・・。世間体を考えて、思っていても言えない一言ってあるじゃないですか?政治でもそんな一言が聞こえてくるシーンがありますよね。友人との会話でもあります。また、言えない一言ってある。その一言の持つ背景は、他人には見えないもの・・・、でもその一言は、大きな一言で、見えないけど、大切な根幹を流れる一言だったりするんです。その一言を言っても現実は何も変わらないかもしれない、でも、その一言を言う事で、本当の現実が見えてくる事もあるのだと、そんな事も思ったりしました。
光代が灯台で「何か言ってよ!祐一は何も言わない!」と言うシーン、祐一は「ずっと一緒には居られない、光代も分かっているだろう・・・」と言うやり取りがある。言ってもしょうがない・・・・本当にそうなのだろうか。しょうがあろうが無かろうが、言うことに実があるのだ!と私は強く思う。言う事の先に何も無くて良い、言うことに意味があり、それが全てであっていいではないか。ぶつけっぱなしで許される関係が人には必要だ。本当は良い人なのよ・・・って、そんな強さが必要だと、いろんなところで思う。信じる事が許される世の中であってほしいと思います。
ンーーーーン、出所してきた祐一と光代の幸せなドラマがみたいゾーーー。
ガマンしても泣けた映画だった。原作がかなり省略されていた分、役者の演技、表情がかなり際立っていた映画でした。佳男が佳乃が殺された現場に行ったとき、現れた佳乃の亡霊、「誰がおまえをこんな目に合わせた?」と聞く佳男を見る佳乃の表情が抜群だった。それと、光代が働く職場の先輩、水谷役の役者・・名前が出てこないけど、その役者がやるのかなーーーと思っていたが、いやいやピッタリでおまんがな!ワンシーンしか出てこないが、存在感ありありで、配役がよかったよーーー。
あーーー、限がないな、こりゃ。
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